音を育てる

小説
Joshua ChoateによるPixabayからの画像

「魔術というものが、非常にパーソナルなものであることは強調しすぎることはない」
初めての講義、壇上に上がった先生は切り出した。
「この中で楽器に触れたものは?結構」
満足そうに先生は頷くと続けられた。
「もう承知の様に、楽器は一つづつに個性がある。響きがある。そして奏者にもそれぞれの感性がある。楽器に取り組み始めた頃は、そもそも音が出ない。それでも諦めずに続けるとある日、突然音がなりだす。課題曲を弾いているうちに痛みが出始める。すると我々は、そろそろ体が動き出す頃かと、より正しい負担のない動きを教える。身体が段々と動ける様になる。すると、なんとなく気になる空気の振動の様なものに惹かれる。あくまで空気の震えで、それ以上のものではないが、惹かれる。その空気の振動を追って何度も弾いていると、ある日突然それは音として現れる。
それには予兆がないし、そもそも己が想像していた音とも違う。しかし、好きだ。こうして音楽が始まる」
「魔術も同じだ。そここそが科学と違うところである。諸君も、必須科目として科学を習っていることと思う。そこで重要視されるのは再現性と反証可能性だ。が、魔術にそれらは重んじられない」
「誰がやっても同じ結果になる魔術はない」
先生は一呼吸おくと、私達にうなずいた。
「勿論、何事にも例外がある。数打てば当たる機械的に出来るものの代表格は呪いだ。しかし、これは対応するのも簡単である。距離を取ること。破壊に酔う素人の周りには誰もいなくなるだろう。孤独を呪いながら、なお孤独になること。それが機械的な誰でもが出来る呪いの道だ。選ぶべきではないと諸君に告げよう」
「エレガントで繊細な呪いがあるかと言われれば、それは恋と呼ばれるらしいがね」
先生は笑うと、黒板へと背をむけた。

「先生のお話、すごく解りやすかったわ」
蜂蜜色の髪をした彼女が笑う。
頷いた彼が私を見て尋ねた。
「君?」
「…全然、解らなかった」
今から思えば、よく言えたと思う。彼らがまとう信頼感が感じられたからかもしれない。
「音楽をやったことは?」
「やったことはないし、周りにもいない。勿論、音は山ほどあったけど。みんなコンピューターの音」
「…ああ。それなら、君はこれから素敵な時を得られるよ。生身を扱うんだ。自分の内と会話をする経験は楽しいよ」



「…あれからずいぶん経った」
と、彼、大学の魔術の先生は血管の浮いた年をとった手をなぜた。
先生の部屋に一人呼び出された午後。
背後には本また本の部屋だった。
「君にもなかろう。魔術にも術式はある。方法論もある。批評もある。だが、魔術をなすのは非常に個人的な行為なのだ」
私の出身階級も先生と同じ様なものだったろう。労働者階級で音楽といえば、大音量で流される音。主に己にストレスを感じなくさせる為に流されるものだった。
沈黙の中で少しづつ己の音を育ててゆく…そんな経験は人生になかった。

「昔、私がみなに導かれた様に、君にアドバイスをしてゆこう」
年取った教授はそうして、古びたノートを私に渡した。