かの人によせて

小説
Ina HoekstraによるPixabayからの画像

「幸せでしたか?」
初めて聞く彼女からの声だった。


呼ばれた気がして、目を開く。
薄暗い病室の夜。
月明かりが僅かに入る病室で。腕に刺さる点滴。簡素な柵のベッド。
外は風が強いのだろうか、窓からは尚暗い影が揺れる。
こんなにはっきり見えたのは、何日ぶりだったろう?
そして脇に立つ彼女を見たのだった。

長い黒髪は艶やかに。年頃は22・3の初々しさ。
それなのに、瞳はずっと臈長けて見える。
不思議なのは、顔はそれなりに見えるのに。
体は朧げだ。月の光の中、立っているかの様に。洋服とも着物にも、十二単に見える時すらある。

初めて見る女性だ…。
と、思った次の瞬間、自分は否定していた。
いや、違う。何度も彼女と話していた。
ずっと、それこそ幼い時から、彼女に向かって話していて。
彼女はいつも、頷きながら聞いてくれていたのだった。
何故、今の今迄、それを忘れてしまっていたのだろう?

そう思った時、不意に気付いた。
私はもう病室にはいない。
滔々と流れる川の岸辺。石ころだらけの地面に、私は立っていた。
静かな世界だ。
初秋の夜の様な、穏やかな空気。

…そうか。私は死んだのか…。
当たり前の様に腑に落ちた。
だから、彼女を思い出せたのだろう。この瞬間だからこそ。


「ええ。結構な人生でした」
彼女は、とても幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ。私は貴方がとても好きでしたよ」
「お見苦しい所ばかり、お見せしました。子供でしたよ、私は。お恥ずかしい位に」
彼女は笑った。
「だれでも、最初はそうですよ。良いお人になられた。良いライバルを得られましたね」
「全く、奴を追っかけていたせいで、とんでもなく遠い所迄来てしまいました…」

しぶとい…それがたどり着いた処だったのかも知れない。
私は警察官だった。人の暗い情念が渦巻く世界の中に入っていく事は、日常だった。
そこに飲み込まれなかったのは、奴の飄々とした足取りだったのだろう。
暗い世界にいても、奴自身が温もりを放つ。
その軽やかさが。私が、いつも恥じない立場にいる事を許した。
「まっとうと感じる立場を信じるのも、楽ではないですな。
でも、結局、欲を払う事です。
欲を払って、自分の内に耳をすませる事。
人間、真摯に自分に聞けば。だれだって、卑しい事は嫌いなはずなのです」
今こそ、確信を持って言える。
この、全てが終わった時だからこそ。

確かに彼女は20代に見える。でも、幼子の様なこの不安定さはなんなのだろう?
いや。儚いと言うべきか。生臭さがまるでない。
…人ではないのだろう。

「おかげで部下には苦労させましたがな。ところで…」
「貴方はいつも、こうして見送るのですか」
…川を渡る人々を。
「いても、見えない方々が多いのですけれど。
遥か昔、私達の一族をこの国の人々は受け入れて下さった。
ご恩返しは当然の事。今は、私が受け持っております」
「でも、貴方もいつかは、この川を渡られる…。どなたが貴方を送られるのです?」

「私が送りますよ。」
伝わるものがあってほしいと、心が急く。
「今度は、私の番ですとも。」
今迄、ずっと私の声を聞いていて下さった。
どれだけ救われたか。心を言葉にのせる事で、はじめて足場が出来た事も多かった。
「感謝しています。今度は私が送りますよ」
「何千年先か解りませんよ」
「その位時間があれば、お送りする為に生まれ変わる事も出来ますでしょう」
彼女は、三たび微笑んだ。
「とりあえずは、あちらで。今世受けた傷を、ゆうるりと直しなされ。また会えれば嬉しいですよ」

気付けば。小舟が待っている。

「部下達に伝えて下さい。有り難うと」
彼女は頷く。
「そうそう。彼からも、頼まれていますよ。とっさん、しっかり生きてこいよ、と」



「銭形警部、亡くなられたって?」
「ああ。俺もさっき聞いた。今日、身内のみのお通夜。明日が葬式だそうだ」
「ルパンも逝ったらしいしな」
ざわめく居酒屋の一角に、スーツ姿の2人組の男性が座りかけていた。
「…俺、あの人好きだったよ。そりゃ、頭切れ過ぎ、正論はき過ぎで、結果でか過ぎときて。
上からは好かれていなかったけどさあ…。なんと言うのかな、安心感があったよ、あの人の側にいると。
まだまだ、捨てた世じゃないと」
「そうだったなあ…」

ロックの氷が音を立てる。
彼女は、黙って微笑みながら、その二人を見ていた。