「幸せでしたか?」
初めて聞く彼女からの声だった。
呼ばれた気がして、目を開く。
薄暗い病室の夜。
月明かりが僅かに入る病室で。腕に刺さる点滴。簡素な柵のベッド。
外は風が強いのだろうか、窓からは尚暗い影が揺れる。
こんなにはっきり見えたのは、何日ぶりだったろう?
そして脇に立つ彼女を見たのだった。
長い黒髪は艶やかに。年頃は22・3の初々しさ。
それなのに、瞳はずっと臈長けて見える。
不思議なのは、顔はそれなりに見えるのに。
体は朧げだ。月の光の中、立っているかの様に。洋服とも着物にも、十二単に見える時すらある。
初めて見る女性だ…。
と、思った次の瞬間、自分は否定していた。
いや、違う。何度も彼女と話していた。
ずっと、それこそ幼い時から、彼女に向かって話していて。
彼女はいつも、頷きながら聞いてくれていたのだった。
何故、今の今迄、それを忘れてしまっていたのだろう?
そう思った時、不意に気付いた。
私はもう病室にはいない。
滔々と流れる川の岸辺。石ころだらけの地面に、私は立っていた。
静かな世界だ。
初秋の夜の様な、穏やかな空気。
…そうか。私は死んだのか…。
当たり前の様に腑に落ちた。
だから、彼女を思い出せたのだろう。この瞬間だからこそ。
「ええ。結構な人生でした」
彼女は、とても幸せそうに微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいわ。私は貴方がとても好きでしたよ」
「お見苦しい所ばかり、お見せしました。子供でしたよ、私は。お恥ずかしい位に」
彼女は笑った。
「だれでも、最初はそうですよ。良いお人になられた。良いライバルを得られましたね」
「全く、奴を追っかけていたせいで、とんでもなく遠い所迄来てしまいました…」
しぶとい…それがたどり着いた処だったのかも知れない。
私は警察官だった。人の暗い情念が渦巻く世界の中に入っていく事は、日常だった。
そこに飲み込まれなかったのは、奴の飄々とした足取りだったのだろう。
暗い世界にいても、奴自身が温もりを放つ。
その軽やかさが。私が、いつも恥じない立場にいる事を許した。
「まっとうと感じる立場を信じるのも、楽ではないですな。
でも、結局、欲を払う事です。
欲を払って、自分の内に耳をすませる事。
人間、真摯に自分に聞けば。だれだって、卑しい事は嫌いなはずなのです」
今こそ、確信を持って言える。
この、全てが終わった時だからこそ。
確かに彼女は20代に見える。でも、幼子の様なこの不安定さはなんなのだろう?
いや。儚いと言うべきか。生臭さがまるでない。
…人ではないのだろう。
「おかげで部下には苦労させましたがな。ところで…」
「貴方はいつも、こうして見送るのですか」
…川を渡る人々を。
「いても、見えない方々が多いのですけれど。
遥か昔、私達の一族をこの国の人々は受け入れて下さった。
ご恩返しは当然の事。今は、私が受け持っております」
「でも、貴方もいつかは、この川を渡られる…。どなたが貴方を送られるのです?」
「私が送りますよ。」
伝わるものがあってほしいと、心が急く。
「今度は、私の番ですとも。」
今迄、ずっと私の声を聞いていて下さった。
どれだけ救われたか。心を言葉にのせる事で、はじめて足場が出来た事も多かった。
「感謝しています。今度は私が送りますよ」
「何千年先か解りませんよ」
「その位時間があれば、お送りする為に生まれ変わる事も出来ますでしょう」
彼女は、三たび微笑んだ。
「とりあえずは、あちらで。今世受けた傷を、ゆうるりと直しなされ。また会えれば嬉しいですよ」
気付けば。小舟が待っている。
「部下達に伝えて下さい。有り難うと」
彼女は頷く。
「そうそう。彼からも、頼まれていますよ。とっさん、しっかり生きてこいよ、と」
「銭形警部、亡くなられたって?」
「ああ。俺もさっき聞いた。今日、身内のみのお通夜。明日が葬式だそうだ」
「ルパンも逝ったらしいしな」
ざわめく居酒屋の一角に、スーツ姿の2人組の男性が座りかけていた。
「…俺、あの人好きだったよ。そりゃ、頭切れ過ぎ、正論はき過ぎで、結果でか過ぎときて。
上からは好かれていなかったけどさあ…。なんと言うのかな、安心感があったよ、あの人の側にいると。
まだまだ、捨てた世じゃないと」
「そうだったなあ…」
ロックの氷が音を立てる。
彼女は、黙って微笑みながら、その二人を見ていた。