夜を渡る羽音

小説
JoeによるPixabayからの画像

幾千羽の蝶が闇の中を群れをなして飛んで行くのを、彼女は感じた。無数の聞こえるはずのない羽音が聞こえる。月は雲に隠れ、天空に光はない。灯りと言えるのは、彼女が持っていた手灯りのみだ。それでも、その蝶たちの羽が鮮やかに黒く光るのが解った。都の大通りから続く小さな路地の入り口に、彼女は立ち竦む。
一瞬前とは空気がはっきり異なるのが、彼女にも感じ取れた。冷たい汗が流れ落ちる。そっと、なにものの注意も引かない様に、慎重に彼女は後ずさった。
その時やっと雲から月が顔を出す。その光は紅く夜の家々の裏手を照らした。


「どうされたのですか?姫。急に下馬されまして」
半歩下がれば、いつもの、当たり前の王都の夜道だ。
彼女の護衛が聞いてくる。彼らは長引いた地方の視察を終え、王宮への帰途の途中だった。夜も更けたこの時刻、道には彼女と護衛達と乗ってきた馬のみで、他に人々は見えなかった。街灯がそこここを照らす大通りからは、その小道は暗く闇にまぎれるように見えない。彼女も何かが引っかからなければ、そこへ入ろうとは思わなかったろう。
「こちらに近づかないで。危ないから」
彼女は自分の着物の合わせに手を入れると、懐紙を取り出した。二つに折ると道の土を線状に掘り、そこへと差し込む。風もないのに、その2枚の紙片ははたはたとはためき、和紙の薫りが立ち昇った。
「仮止め。後はプロに任せましょう」
やっと息を吐くと、彼女はその護衛に陰陽寮への指示を出し、神経質に尾を揺らす自分の白馬をなだめるように撫ぜた。
「最近ここらは物騒なの?」
「いえ。特にここがという話は聞いておりません。が、最近の国内はと言うと…。ここになにか?」
「異界が重なっている」
これですんなり解るのが、彼女の護衛だ。彼女の護衛の殆どが、陰陽寮系列の武官という事もある。
「術士様が来られるまで封鎖しましょう。しかし、本当に最近は異界が多い」
「我ら人間が呼ぶのかな。不穏な世情だから」
「人間が魔物を?」
彼女はちらりと護衛を見ると笑った。
「人間とは、この世に残った最後の魔物らしいぞ。魔物同士呼び合ってもおかしくはない。まあ、魔物は魔物でもきっと一番弱いだろうから、本物の異界に入れば大方はのまれて、ひとたまりもないのでしょうけれど」
「…どうなるのです?」
「全ての異界がそうとも言えないでしょうけれど。穴に落ちる…というか、闇、光のような闇もあるかしらね、に落ちるというか…」
彼女の言葉は曖昧に途切れる。その闇の先に陽はあるのだろうか。
そして頭を振る。愚かな事を考えまいと彼女は思う。陽を感じられる道と闇に続く道が目の前にあるのなら、わざわざ闇の道を選ぶ愚を冒すまい。それは生きるものの理だ。
だが、と彼女はその考えが捨てられない。
万が一、闇に落ちてしまった時に、その先にあるかも知れない光をどうやったら見つけてゆけるのか。どうやって光の下へと自らを導いてゆけるのか。
匂いと温もりかな…と、ふと彼女は思った。深い森の中で、光の中に出るには、風に乗る緑の放つ薫りと陽の温もりを感じ取ることだ。異界でも、人の生でも同じかも知れない。それを感じ取れるだけの余力は持っていたいと彼女は望んだ。

「ご連絡ありがとうございます、御姫」
駆けつけた術士に彼女は、軽く頭を下げる。
「ところで、姫はあの路地をどうご覧になられましたか?」
術士の目が光った様にみえたのは、彼女の気のせいだったろうか。
「…さあ、私にはなんとも」

異界が彼女にいつも同じように見えたことはない、だがなにか共通する気配があるとも思う。そして同じ異界でも人によって全く異なって見えることも、彼女は聞いている。
異界をどうご覧になられましたか?
世界をどう見ましたか?
…それは、私の心の暗部をどう見たのか、世界をどういう御簾越しに見ているか、私という魔物が自分にどう見えたかではないか?
自分の中にも勿論深い闇があることを彼女は知っている。それを野放しにすまいとは思う。だが己の中の闇へと目をやると、彼女は一瞬で恐れに足が竦む。そこには確かに彼女の見る異界に近い気配があるのかも知れない。反射的に視線を外すしかない自分を、彼女は情けなく思いながらも、生き残る為にはそれが道なのかとも惑う。
いつかその闇に直面しても、笑って振り切れる自分であれるだろうか。

再び馬へと跨がりその息づかいを感じながら、彼女は思う。愚を冒すまいと。
それでも、彼女には闇の中、何千羽と飛ぶ夜の蝶が忘れられそうもない。


夜を渡るあの蝶にも先に光があれば良いと、彼女は我知らず祈っていた。