水の回廊

小説
Roman GracによるPixabayからの画像

その音は密やかに清く淡く消える。
どこからか聞こえたと思い、振り返る音のように。
それが良いのですよ、とイリスは微笑んだ。
訴えることなく、引きずることなく。
その張られた絹糸が奏でる音は優しい。

「貴方様の好みですよね」
「下々の音ということですか?」
彼女は微笑みを深めた。それは上流階級の楽器ではない。下々のしかも本流から外れた楽器だ。
「違いますよ。お判りでしょう、そんなこと。優しいくせに囚われない音ですねということです。実に貴方様の好みだ」

彼は、自分が男性として扱われていないことを知っている。彼は彼という人間として、だ。が。イリスが女性にこの楽器の音を聴かせないことも知っている。
「女性受けは悪いのですよ」
「まあ、そうでしょうね。世界の理の音だ。女性も男性もないですよ、好きな方が珍しいのです」
「貴方は珍しい一人です。でも、世界の理とは、大きく出ましたね」
「その通りでしょう。そういう性格の音ですよ」

イリスが弾くのは美しい旋律だ。そもそもそんな詩の為の楽器ではないのだが、彼女はその楽器が本来担当する曲目が好きではない。
「美しいものは、聞こえるか聞こえないかで良いと思いませんか?そのために人は耳をすませるのですから」

耳を澄ましても一音を人に伝えただけで、風がさらっていってしまう。
それでも。その一音は陽の優しさと風の暖かさをうつろう人に気付かせるのだ。

彼は首を振った。
それは幸せだろうか?
幸せが、刹那の飛躍であるということは。

それだけのこと、それを喜びにも残酷にも取るのは受け手側の方なのだ。
緑の香り濃い四阿から流れる音はあくまで美しい。


ただ美しい。